
このフランス映画は、まるで日本人(私のというべきか)の考えるステレオタイプなフランス人像に合わせて作られているような感じがして面白い。あらすじをざっと紹介すると、外人部隊から脱走してきた無一文のJ・ギャバン演じる青年ジャンが、霧の港町ル・アーブルで出会った少女ネリー(17歳)と恋に落ち、彼は南米に渡ろうとするが、彼女に絡むトラブルに巻き込まれ、撃たれて非業の死を遂げるというものである。
少女役のミシェル・モルガンはミステリアスな美人で、このとき18歳だったというが画面では20代半ば以上の雰囲気である。それでも役では17歳というのだから、フランスでは恋に年齢制限はないのか、などとこのときの実年齢が34歳のギャバンがうらやましくなる。一般にフランス人はあまのじゃくと私は思っているが、モルガンのような美少女が、無骨で口だけは達者な、無一文で腹を空かせた(少女と初対面のときギャバンは酒場の主人にめぐんで貰った食物を、彼女の前でがつがつ食べるのである)ハンサムでもなく、年齢も離れた男と恋に落ちるのであるから、これがフランス流のエスプリというものかと合点しても不思議はないだろう。
登場人物は多彩で、ネリーに付きまとうヤクザ者、ネリーの養父で偽善者の小間物店主、パナマ亭という掘っ立て小屋酒場の主人、ミシェルという自殺願望の画家、一晩清潔なベッドで寝ることを夢見る酔っ払いなど、変った個性を尊重するのもあちら流かと思わせる。
この映画には権力者は出てこない。出てくるのは人生に懐疑的な個人主義者ばかりだが、決して利己主義者ばかりではない。画家はジャンのために自分の身ぐるみ一式と身分証明書を残して海に消え、酒場の主人は画家の意図を知りながらも積極的には自殺を止めることをしない。他人の人生には干渉しない主義なのだろう。そしてなぜか見も知らぬジャンの苦境を助けるのである。
その一方でネリーの養父のような、会う人みんなに直感的に嫌われてしまう人物も登場する。彼は養女のネリーを恋するあまり、恋仲になりそうな青年を、嫉妬のあまりに殺してしまったらしいのである。むさ苦しい爺さんではあるが、その心情は哀れである。それにしてもこの爺さんはネリーの前で、私はなぜ嫌われるのか、愛されないのかと嘆くのであるから驚く。
フランスといえば言葉の国ということを忘れてはいけない。こんなことを云うと叱られそうだが、歴史的に色々な苦難の経験のせいで、「せめて口では負けないぞ」という意識が強かったおかげで洗練されたらしい。この映画でも、せりふ(字幕だが)が実に哲学的である。みんな勝手に難しいことを云うが、その会話はまるで噛み合っていない。それはおそらく彼らが個々人として、それぞれ独自性を持った存在だということを表しているのかもしれない。
しかしジャンは結構な人生哲学をのたまう割りには、その行動は大人のものとは云いがたい。無益な喧嘩や強がりでヤクザ者を辱めたことから、結局撃たれて命を失うことになるし、いくらネリーの養父が卑劣だといっても、激情に駆られたあげくレンガで殴り殺したりするものだろうか。結局この映画が成立するためには、血の気の多い若者というのはそれほど思慮分別のない存在なのだ、という前提がなければならないだろう。
最後になったが、車に轢かれそうになったところをジャンに助けられた「野良犬?」が可愛い。初めはジャンに付きまとって邪険にされるが、やがて相棒と認めてもらい南米へも同行するはずであった。ジャンが殺された後このワン君は、主人を待っていた船を跳びだして、ジャンと最初に会った街道へと消えていく。実は彼が一番の名優かもしれない。
とまれ私にはこの映画が「フランス情緒」の詰まった貴重な作品であることに間違いはない。それは現在のフランス人にとっては、「フジヤマ・芸者ガール」の類のフランス像なのかもしれない。何しろ「南米行きの船」にロマンを感じるなんて、現代人には想像もできないことだろう。70年も前の話といえば歴史上のことと云ってもいいかもしれない。私の歴史も長くなった。
「濡れて来し少女が匂ふ巴里祭」 能村登四郎
季節外れですが、ネリーの霧に濡れたコートを思い出して。
<LE QUAI DES BRUMES 監督:Marcel Carne 出演:Jean Gabin,
Michele Morgan: FRANCE,1938>